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元治元年9月24日(1864年10月24日)

【京】将軍進発:老中阿部正外参内し、将軍進発遅延を報告。横浜鎖港の困難を説く。
征長副将松平茂昭、徳川慶勝を訪ね、軍略を質す。慶勝、将軍徳川家茂進発の要を説く。
【京】 薩摩藩、長州支族・岩国領主吉川監物を介した恭順周旋(実際は離間策)着手前に
吉川や長州の心底を確認するために、藩士高崎五六を、筑前藩士喜多川雄平に伴わせて、岩国に派遣。、

☆京都のお天気:晴北風寒 (『嵯峨実愛日記』)
>老中阿部正外の上京2
【京】元治1年9月24日、老中阿部正外が参内し、常野の騒動(天狗・諸生の乱)等による将軍徳川家茂進発の遅延、横浜鎖港を強行すれば、朝廷と直接交渉するために外国艦が摂海にやってくる可能性を報告しました。

※阿部正外が、両役(議奏・伝奏)と面会し、横浜鎖港が難しいことを語った。(飛鳥井雅典の日記)
※今日は阿部豊後守参内。江戸の模様及び外夷切迫(により)来月五日限りで摂海へ入航する旨(報告があった)。右は、(幕府が)鎖港で決まれば、今度は必ず天朝と条約を結ぶという難題を申しかけたそうだ。一橋からも言上があるのでよろしく願いたいとのこと。(中川宮の日記)
※今日、老中阿部豊後守が参内。両役一同で面談。関東事情常野辺一揆による大樹進発の延引・・・その他摂海入津等を夷賊の申立て等、大樹苦心焦思等のこと。・・・この後、殿下以下国事掛の衆、親王丞相摂家中中等、阿部と面談。御前衆評群議あり。夜に入って退出。(嵯峨実愛の日記)

(阿部が朝廷に差し出した上書のてきとう読み下し)
(略)(天狗諸生の乱の情勢報告「・・・最早鎮撫ト奉存候」)。

一、西は長州の賊之有り、大樹進発の折柄、夷共(=外国人達)難事を申立候趣風説も之有り候間、夫々探索致させ候内、各国ミニストル共より其筋の者迄申答には、此度各政府にて申談の上、両国交際の義に付、御国政府へ申立候間、速に御逢下さるべく候、尤不日アドミラール入港致すべく候間、日限の義は其節申上げ候旨申立て候。

一、各国は(ママ)申立候は、英国仏国亜国和蘭の四ヶ国に之有り、申談候趣意は、條約面弥(いよいよ)御施行之有り候哉、または御取行之無き哉、有無相伺度との義に之有り、万一御施行之無き上は速かに摂海へ軍艦へ(ママ)相廻し、
京師(=朝廷)と條約相結び申すべし、若し拒み候者義之有り候はば、兵威を以て相迫候は(ママ)年来の志願相貫き候様致すべしとの義に御座候。

一、横浜鎖港の義は、大樹上洛の節御請申上候通り、是非共成功を遂げ申すべき見込みにて、追々申上置候通り、鎖港の手段相掛り居り候の処、
御国内の混乱片時も捨て置きがたく、夫(ママ)指揮仕候折柄、今月六日七日各国ミニストルで出府致し、前文の趣意申立て、有無の御返答承り度、かつ外国の事情悉(委)敷
京師へ申上げ、今日より三十日内に御返答相伺い度、万一遅延に及び候はば、速に摂海へ相廻り候故申立て候間、精々説得及び候得共、今般の義は四ヶ国申合いの義にてとても承引仕り間敷、左様とて、摂海へ相廻り候ては大樹の職掌相立ち難く、焦思労慮仕り候得共、内乱外患一時に相湊、如何共致し方之無く、大樹の胸中御深察成し下され候様懇願候。

  子九月    阿部豊後守

<ヒロ>
結局のところ、横浜鎖港が不可能だとは言い出せず、今は極めて困難だという事情を説明したに終わってしまいました。

参考:「飛鳥井雅典日記」「松平孝顕手録/孝明天皇紀百」(綱要DB元治1年9月24日条25、32-34)『嵯峨実愛日記』一p38, 『朝彦親王日記』一
関連■横浜鎖港問題(2)&条約勅許問題

>第一次幕長戦へ
■征長総督就任問題
【京】元治1年9月24日、征長副将・越前藩主松平茂昭は、前尾張藩主徳川慶勝を訪ね、征長の軍略を質しました。

慶勝は、前23日に老中稲葉正邦に権限について伺書を提出したので、権限の指令が届けば下坂し、諸藩を集めて軍議を開くと述べた上で、将軍徳川家茂進発の要を説きました


参考:「枢密備忘」(綱要DB 元治1年9月24日条 No 103, 104)

■諸藩の長州恭順周旋(筑前藩&薩摩藩)
【京】元治1年9月24日、薩摩藩は、吉川監物を介した長州恭順周旋(実際は離間策)を始めるにあたって、吉川や長州の心底を確認するために、藩士高崎五六を、帰国する筑前藩士喜多岡勇平に伴わせて、岩国へ差し向けました(この日は京都を出立、下坂)

<筑前藩の周旋>
これより先、禁門の変直後の8月14日、吉川経幹は、家臣桂九郎兵衛を筑前藩に派遣し、宗藩主毛利慶親父子救解の斡旋を、藩主黒田斉溥父子に依頼していました(筑前藩は禁門の変の前から、長州には恭順謝罪を勧めていました)。筑前藩では長州への寛大な処置を周旋させるために、家老小川讃岐に喜多岡を付して上京させることとし、上京途上の、9月2日、喜多岡が岩国に寄り、吉川監物を訪ねて、筑前・薩摩・肥後の藩情を告げ、速かに長州の藩庁のある山口に赴いて、宗藩恭順に尽力するよう勧告していました。(経幹は宗藩のために尽力すると回答)。

上京後、喜多岡は、元?薩摩藩士藤井良節(おゆら騒動後、一時筑前藩に亡命、近衛家雇)を介して薩摩藩と接触したそうです。(長州離間を上策とする)薩摩藩では吉川を介した恭順周旋を開始する前に、吉川監物や長州の底意を確認するため、喜多川の帰国にあわせて、高崎五六を岩国に派遣することになりました。

<ヒロ>
西郷は、大久保一蔵宛ての9月19日の書簡で、征長が決まれば自ら広島へ赴き、長州藩と支藩の離間を図る計画だと告げていましたが(こちら)、その計画は、喜多岡の話に触発されたのかも・・・。

参考:「喜多岡元道遺蹟」「吉川経幹周旋記『稿本』(綱要DB 9月2日、9月30日条)、『西郷隆盛全集』一p415(2018/8/20)

関連:テーマ別元治1■第一次幕長戦へ(元治1)

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